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近松門左衛門の墓 (尼崎/谷町)

曽根崎心中の作者である近松門左衛門の生い立ちには諸説ありますが、
お墓も尼崎(唐津)・谷町(大阪)・唐津(佐賀)にあります。
ここでは近松門左衛門の末裔・近松洋男氏による『口伝解禁 近松門左衛門の真実』に従い、
尼崎の廣済寺ならびに大阪・谷町の法妙寺跡地を訪れてみました。


近松を大いに讃える尼崎の墓。文明の利器に隠れる谷町の墓。



近松門左衛門の生涯は多くの謎に包まれており、生誕地からして、越前(福井)説と長門(山口)説があります。そのルーツを敷衍するがごとく、近松門左衛門の墓も、尼崎の廣済寺、谷町の法妙寺跡地、佐賀の近松寺などがあります。

ちなみに国の史跡に指定されている近松門左衛門の墓は、尼崎の廣済寺と谷町の法妙寺跡地。生前の近松は廣済寺を再興した日昌上人と親交があるだけでなく再興にも尽力し、また晩年は度々足を運んだこともあり、尼崎の墓は、近松門左衛門と後妻・一珠院の比翼墓となっています。いっぽう、谷町にあった法妙寺は道路拡張のために大阪府大東市に移転していますが、墓も移転すると国の史跡から外れてしまうので、篤志家の働きかけによってお墓だけは谷町に残されています。なお、近松一族の墓や過去帳などは移転され、谷町にある墓と瓜二つの形状の供養塔があります。また後妻の実家が法妙寺の檀家であったようです。

佐賀の近松寺も大いに気になるところですが、いつか機会があれば訪れることにして、国の史跡に指定されている二つの「近松門左衛門の墓」をご紹介します。

近松を大いに讃える尼崎の墓

近松の名を冠した公園や記念館があり尼崎の文化的な象徴ともいえる近松門左衛門

ここ数年のことですが、四月が近づくと、ふと曽根崎心中について思いを巡らせたくなるときがあります。そんなとき、とかく足を運ぶのは大阪市内だったりするわけですが、近松門左衛門を偲ぶにあたり、一度、尼崎にある近松門左衛門の墓を訪れてみようと、まずは電車に乗車。くだんの墓がある日蓮宗の廣済寺へは最寄りの公共交通がバスとのことでしたが、滅多に歩くことのない街も見てみたく思い、JR尼崎駅から福知山線に乗り換え、徒歩での最寄り駅でもある塚口駅へ。

途中、写真も掲載していますが、未曾有の大惨事となった福知山線列車事故の現場を車窓から見ました。言葉では言い表せられない悲痛な思いにかられつつも、一駅目が目的の塚口駅ということで、まずは近松公園を目指して歩きました。

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車窓から福知山線の事故現場を見る。合掌

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思ったよりも広くて落ち着く近松公園

後ほど地図を紹介しておきますが、徒歩で15分程かかるものの、落ち着いた住宅地と商店街を通り抜けるので、ちょっとした散歩気分に浸るにも悪くないといったところでしょうか。しばらくするとバス通りがある交差点を右折し、少し歩くと右手に近松公園の入口が見えました。

ここは当初の予想よりも広く市民の憩いの場的な公園です。ちょうど桜の開花の時期でしたので、花見を楽しむ人達も多数いました。その公園を取り囲むように遊歩道があり、時計回りに進むと、近松門左衛門の像と記念館があります。入場料200円を支払い、近松門左衛門にまつわる寺宝等(廣済寺裏にあったとされる近松部屋の階段や遺品等)を見物した後、いよいよ記念館の隣にある廣済寺へ。

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近松公園で咲いていた桜

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近松公園に隣接する記念館前に鎮座する近松門左衛門像

少し余談になりますが、尼崎に足を運ぶとあらためて実感するのは、尼崎市の文化的PRの象徴として近松門左衛門が想像以上にクローズアップされていることです。ちなみに、現在、尼崎市は兵庫県ですが、廃藩置県以前は大阪市と同じ摂津国で、今もその名残りというべきか?電話の市外局番も大阪市と同じ「06」です。

尼崎市制70周年を契機として、市は文化振興の核として「近松」を位置づけ、文化・教育・環境整備・産業を結びつける街づくりに取り組んでいます。

だからでしょうか。街の空気感や人々の言葉は大阪のそれとあまり変わりません。それだけでなく、近松が作品を執筆するうえで諸国の話を聞いたと伝えられていますが、言い伝えたのは、尼崎にあった大阪(大坂)の船問屋に属する船頭。その船問屋の尼崎屋吉右衛門宅は、廃寺同然だった廣済寺を再興した日昌上人の実家だったようです。というわけで、尼崎は神戸というより大阪の文化圏と言って過言ではないでしょう。

廣済寺再建にあたり、近松自身、建立本願人として名を連ねるだけでなく、母親の法要もここで執り行なっています。本堂の裏には明治時代末期まで「近松部屋」という執筆のための部屋があったとのこと。そういえば、滋賀県大津市にある石山寺にも紫式部が「源氏物語」を執筆したと伝えられる部屋が今もありましたっけ。

さてさて、話を本題に戻しまして、いよいよ近松門左衛門の墓へ。

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文部省(現文部科学省)指定史跡としっかり刻まれています

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本堂の前に案内表示があるので迷うことはありません

菩提樹の下とは少し趣が異なるかもしれませんが、黐の木(モチノキ)の下、近松門左衛門の戒名である「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)」ならびに後妻の戒名「一珠院妙中日事信女」と刻まれた墓石がありました。じつは廣済寺へ訪れる以前に、後述する大阪・谷町の墓は度々訪れていますが、そちらの墓とかなり似た風情です。ただし、尼崎の墓は黐の木の下、谷町の墓は大阪市営地下鉄施設の下に墓がありますが。

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音声によるガイドもありました

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お墓を左側からのぞむ

さて、廣済寺までの道のりですが、廣済寺のウェブサイトで詳しく説明されていますので、そちらをご覧ください。

廣済寺のウェブサイト

以下にYahoo!地図も掲載しておきます。

文明の利器に隠れる谷町の墓

国の史跡指定を残すためとはいえ歴史的な人物の墓が市営地下鉄施設の一角に追いやられている

大阪・谷町筋にある近松門左衛門の墓は、これまで何度も訪れています。大坂三十三観音巡礼をしたときも16番札所に向かう途中にお参りしました。曽根崎心中と近松門左衛門を読み・語り・知るうえではロケーション的にこの上ないのですが、その佇まいを目の当たりにするなり愕然としてしまいます。

と言いますのも、現在、墓所の入口は、大阪市営地下鉄の関連施設(といっても小さな鉄筋の建物)の右隅にあり、以下にある写真のとおり殺伐とした趣です。

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初めて訪れると目を疑ってしまいます

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案内板と通路を見ると奥ゆかしさを感じるかも……

元々この地にあった法妙寺は、1967年に谷町筋の道路拡張のため大東市に移転を余儀なくされたわけですが、この場所にある墓も、じつは境内の名残りの地ではなく、財団法人住吉名勝保存会をはじめとする篤志家の協力により、1980年に境内のあった場所から移転したとのこと。

それにしても、地下鉄の通風塔の軒下ともいうべき、建物をくり抜いたような場所に日本を代表する文豪の墓。これでは大阪市の文化的姿勢を疑いたくなります。いや、これこそが、文化遺産よりも文明の利器を優先する大阪市の姿勢か。そんな義憤を覚えながらも、少し歩けば谷町九丁目駅近くには、お初の墓もありますし、谷町筋には曽根崎心中でも綴られている大坂三十三観音の札所が何カ所もあります。

むしろ市井の悲哀を綴った近松門左衛門の墓だからこそ、こうしてひっそりと佇んでいるのが風情なのかもしれませんし、周囲は近松作品ゆかりの地でもあります。その意味では、大阪のアーバンツーリズムを語るうえでは不可欠とも言える谷町筋です。

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ようやく墓所に着いたかと思いきや…

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所狭しといった配置でただ驚いた

尼崎と谷町いずれの墓も緑泥石片岩が使われていて、近松夫妻の戒名が刻まれているのも同じです。

さて、谷町筋にある近松門左衛門の墓の所在地ですが、以下の地図を参考にしてください。地下鉄谷町線の谷町六丁目および谷町九丁目から歩いて行けます。



※「#曽根崎心中」にかんするお問い合わせはinfo@doublesuicide.jpまでご連絡ください。