日本語 / English

お初徳兵衛の墓碑/もう一つの悲劇:谷町九丁目「久成寺」八尾市「大通寺」にて

『曽根崎心中』では曽根崎の森で心中を遂げたとされるお初と徳兵衛。
一度はお墓に訪れてみたい。
というわけで墓所をいろいろと調べて足を運ぶと……いろんな言い伝えに出逢いました。


この世で夫婦になれずとも、あの世で一緒になる誓いを立てた二人



『曽根崎心中』のクライマックスともいえる「道行」に次のようなくだりがあります。

「(前略)ずっと神や仏にお願いした、この世で夫婦となる願いを、今ここで、未来に成就するように差し向けて、なおいっそうあの世で同じ蓮の葉の上で生まれ変わりましょう」

  • (原文)

「神や仏に掛置(かけを)きし 現世の願(ぐはん)を今こゝで。未来へ回向し後(のち)の世も なをしも一つ蓮(はちす)ぞやと。」



遊女として自由の身ではないお初の切なる願い。この世での命が尽き果て霊魂があの世(浄土)へと往生した後、亡骸(なきがら)も一緒に弔われたのか? そんな素朴な疑問をもとに、お初と徳兵衛の墓について、書籍やインターネットで調べてみました。すると、近松門左衛門同様、複数の墓や墓碑があることを知りました。

まず一つ目は、大阪市内しかも近松門左衛門の墓にも程近い久成寺。地下鉄谷町九丁目駅から歩いて2分程の場所にあり、すぐそばには、小説『檸檬』で知られる梶井基次郎の墓があるお寺もあります。

さて、『曽根崎心中』では、お初と徳兵衛の二人は「南無阿弥陀仏」と念仏を称えて心中しますが、ここ久成寺は本門法華宗と日蓮宗門系。「南無妙法蓮華経」と題目を唱える宗派ですね。どうも不思議に思って調べてみたところ、お初が徳兵衛と出逢った天満屋の檀家ということで、お初の墓が建てられたという話が伝わっているようです。明治維新以降は所在不明になったそうですが、お初の三百回忌にあたる2002年に再建されました。

そのお墓なんですが、とても小さく地味で、よ〜く見て歩かないと気づかないかもしれません。でも、この久成寺では、お初についての言い伝えがあり、曽根崎心中ゆかりの寺であると言えます。そのいっぽうで、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える場所にも墓はないものかと調べたところ、お初と徳兵衛の墓碑がある寺の存在を知りました。

yao01.jpg

山門には「お初墓所」と書かれており場所を間違うことはありません

yao02.jpg

墓石の前面です

yao03.jpg

右側をみると「曽根崎心中 お初の墓」と刻まれています

yao04.jpg

こちらは滋賀県草津市にある同じ近松門左衛門の作品『冥土の飛脚』に登場し、心中を遂げることができず、83歳まで懺悔の日々を送った梅川の墓です

この世で結ばれていた?お初と徳兵衛



「思い立ったが吉日」という気持ちはかなり先立ってあったのですが、ようやく足を運んだのは2013年7月。しかも夕暮れどき。場所は大阪府八尾市にある大通寺で、念仏系の宗派としては、法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗(真宗)よりも古い融通念仏宗の寺院です。

この大通寺があるエリア、とても歴史を感じさせる、古い町並みが残っていて、大阪市内から20分程電車で離れただけの場所とは思えない程。駅から向かう途中も山並みが眼前にそびえていて、妙に落ち着いた気分にさせられます。

駅からは少し歩いたものの、ついにお初・徳兵衛の墓標との対面を果たすことができました。


近松門左衛門の墓や大坂三十三観音の札所も近くにあります

yao05.jpg

どことなく信仰の香りが漂うエリア

河内の八尾出身のお初



お寺の門をくぐると住職さんがいらっしゃったのでお初・徳兵衛について話を伺いました。

残念なことに、お寺には、当時の過去帳等、古文書が残っておらず、お初・徳兵衛の墓碑についても、詳細はわからないとのこと。ただ、お初は八尾の教興寺村の出身(巽出身説も)という昔からの言い伝えがあるそうです。また、曽根崎心中のストーリーとは異なり、お初は堂島新地での年季が明けた後、大通寺に程近い融通念仏宗の教興寺住職であった浄厳のはからいで、恋仲となった徳兵衛と晴れて夫婦になったものの、程なくして徳兵衛が病死。お初は後追いして自決したという逸話が、この地では残っているそうです。

大通寺境内にあるお初・徳兵衛の墓碑も、そんな二人を哀れんだ浄厳による建立とのこと。

ちなみに、近松門左衛門が『曽根崎心中』の脚本をしたためたきっかけも、浄厳から聞いたお初と徳兵衛の悲話を、人形浄瑠璃向けに脚色したとの言い伝えが残っているようです。

yao06.jpg

こじんまりした静かなお寺といった風情

yao07.jpg

門前には八尾市教育委員会による説明が。縁結び的な信仰があるようですね。

yao08.jpg

お初・徳兵衛の墓碑。キレイに護られています

yao09.jpg

見えにくいですが「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれています

八尾に伝わるお初と徳兵衛の悲話は民衆の心の温かさ?



『曽根崎心中』が上演された翌年、京都では『心中大鑑』という近畿圏で起こった心中をまとめた書物が刊行されています。そのなかでお初と徳兵衛の心中も「曽根崎の曙」というタイトルで紹介されており、曽根崎の森で心中したと記されています。ですから、八尾で伝わっている話は、ひとつの伝承にすぎないかもしれません。いや、それこそ、じつは真実かもしれません。

いずれにしましても、江戸時代において、心中は「不義密通」の罪人として扱われ、たとえ死んだとしても、亡骸は遺骸取捨。つまり葬儀や埋葬もしてもらえませんでした。ですから、心中した男女の亡骸は、ゴミのように扱われていたのです。

というわけで、もしお初と徳兵衛が心中し二人とも死んだとすれば、どこの墓へ行っても遺骨は存在しない墓碑ということになります。が、それはそれで現実だとして、八尾に伝わる話から類推できることがあります。それは……

もし曽根崎の森で心中したとすれば、家庭の経済苦から娘を身売りした挙げ句、好きになった男とこの世では結ばれずに情死した。死んでも罪人。家族も世間に顔向けができない。

そんな哀れな状況を察した人々が徳兵衛の病死後、後を追うようにしてお初も死んだと伝えていったのかもしれませんし、考えようによっては、村から心中した者がいることを恥じた人が脚色した伝説なのかもしれません。

とまれ、もし、八尾に伝わるお初と徳兵衛の悲話が作り話であったとしても、人々の哀れむ心から生まれた話だと思いたいですし、繰り返しになりますが、お初と徳兵衛は、この世で束の間の夫婦生活を送っていたのかもしれません。

『曽根崎心中』というストーリーそのものも全てが実話ではありませんが、「世間虚仮」(この世の物事は借り物であり仏の教えのみが真実である)と思えばこそ、いろんな想像を働かせながら曽根崎心中を味わっていきたいという気持ちを胸に抱き、大通寺を後にしました。

※「#曽根崎心中」にかんするお問い合わせはinfo@doublesuicide.jpまでご連絡ください。